木曜日, 6月 22, 2006

2度目の検査入院決定

明日から。今度は食塩負荷試験もやるらしいなあ。
まあまたまた、目新しい経験ができるということで
しばらくは退屈しないですむかな。
読書でもしてすごすか。折角の機会だから、なんかできないかな。
しばらくインターネットともおさらばかな。

それでは。

読書は楽し

修羅場の鉄則 起死回生のマネー哲学
修羅場のマネー哲学

の2冊を続けざまに読んだ。
それだけ面白かった。

木戸次郎さんの体験を書いた本だが、
その修羅場での精神的な強さに感服した。

どうすればそんなに強くなれるんだろうか。

日曜日, 6月 18, 2006

授業参観で泣いたこと

自分の特に最近の情緒不安定も原因している
ことなので、少々恥ずかしいことだが、子供の
授業参観にいって、思わず涙がでてしまった。

上の子の教室に、行くと、教室の横に各生徒の
自己紹介と自己PRがそれぞれ一枚の紙になっていた。

自分の娘の紙を見つけて、読んでいくと。
理科が好きなこと、さくらんぼが好きなことが
書いてあった。

「私の宝物」というところで「かぞく」

とだけ書いてあった。

子供達のまえでよく深刻な夫婦喧嘩をしていることや、
自分があまり良い父親でないのに
そう書いている娘のことを思うと、急に涙がこみ上げてきて
とめられなかった。

それを隠して、トイレいって顔洗ったりしていた。

それから、また昔のことを思い出した。

娘達が通っている小学校は、自分が昔、小学校5年の
1学期まで通っていた小学校で、今から35年くらい前だろうか
私の父が算数の授業の参観にきてくれた。

たしか僕はそのとき3年生だったのだと思う。

父の前でよいところを見せたい気持ちもあり、
実際、自分がそこそこ算数ができたこともあり、
その授業で、先生が出した問題を自分だけが解く
ことができた。それを父はとても喜んで褒めてくれた。

自分が9歳まではいつも父が僕の唯一の擁護者で理解者で支援者だった。
そして父が急に交通事故で4月になくなった。僕が4年生になった日だ。

家族で男は僕だけになったし、ともかく泣いてはいけないと我慢していた。
そしてその年の夏、毎年父に連れていってもらった市民プールに
一人でいって、プールに飛び込んだとき、今まで溜めていた
涙が一気に噴出してくるように泣いた。プールの中だと泣いても
わからない。

そんな少年だった自分が今は、こんなに涙もろくなっている。
情けない男で、仕事も失敗だらけで、しょっちゅう挫けそうに
なりながら、なんとかやっている。

あの父に褒めてもらえるほどの人生をとてもつかめていない。

それでもあの父がもしいたら、きっと今の僕でも受け入れて
褒めてくれるていただろう。

綺麗な夜空をゆっくり眺めたときのような、気持ちにさせてくれる
父だった。

今日は父の日、亡き父に褒められるような、生き方をしたい。

社長という仕事の困難

最近、4人の社長さんに会ったのだが、
そのうち3人は、仕事によるストレスが大きくきっかけに
なったと思われる病気にかかっているか、かかった経験がある
ことがわかった。

不整脈、高血圧、アレルギー症状の悪化とか。

それでも、一度社長業をやってしまうと、
社長として仕事やるしかできなくなってしまう
ことが多いようだ。

話きいているだけでも、こっちまでつらくなってしまう。

会社の経営自体がうまくいかないことと、
信頼しているスタッフがやめて(あるいは自分を裏切って競合他社にいくこと)が、

一番、精神的にも、肉体的にも、調子を崩す原因に
なることは共通しているようだ。

さて、僕は、そんな仕事にこんな健康状態で、近い将来に
復帰しなくてはならないような状況になってきた。

ニートとかフリーターは生涯賃金とか、本当の意味で仕事に
真剣に関わるという観点では、あまりよい状態とは思えないが、
社長業で仕事にあまりにも真剣に関わらざるを得なくなって、
健康を害するような ことになるなら、そっちのほうが、
人生トータルで考えると 馬鹿げたことにも思える。

それでもやるときはやるしかないけど。

今は引退している、ある元社長さんからこんなことをきいたこともある。

「会社の状態がよくなると、自分の健康状態もよくなってくるんだよなあ
そんなもんなんだなあ、社長って。」

そんなもんだな。うまくいきさえすれば、社長業ほどやりがい
あって楽しいこともないだろうし。

そして、そんな困難や怖さをよくしって、心配しながらも、
夢(あるいは事業計画)をつくって、面白い可能性に
かけられるような人が社長に向いているのだと思う。

心配性で冒険好き、あるときは楽天的になれて、
それでもリスクを回避、減少させる方法をいつも
考えていられる。

そういう相反するようなところを同時にもってないと、
会社なんてうまく経営できないと思う。

水曜日, 6月 14, 2006

「嫌われ松子の一生」を見てきた

BONNIE PINKが曲も提供してなんとソープランド嬢として
出演もしていた。この人の歌は前から何回も聴いている。

小説読んでから映画をみて、今頃、松子がこうなってしまう
根本原因が、父親が病弱な妹の心配ばかりして自分に
愛情を注いでくれないそれで、なんとか愛されたいと
思いながら育ってきたことにあることがわかる。

なんでこんなに 嫌われて不幸まっしぐらな主人公を
好きになるのかが、今でも自分で説明できない。

でも、思うんだ、誰でも自分の資質に忠実に
生きることでしか、本当の自分でいられない。

松子は自分の資質に忠実に生きた。
だからそれが自業自得のような自滅的な
人生でも僕は好きだ。

そして、本来、幸せというのはそれ自体を目的にはできる
ものでないんじゃないだろうかと。

自分の願うことを追いかけていって、その先に幸せが
あるか不幸があるかなんて、もうどうでもいいし、
どうにもできないのかもしれない。

POPな映像からまた考えすぎかもしれないけど。

月曜日, 6月 12, 2006

月曜は新たな力がでる

今朝、月曜の朝は、ともかく仕事だという気迫で
身体に力が入るのであった。それが嬉しい。

力が入っている間にやることパキパキやって、
今晩は 

アーア、今日は良くやったなあ、俺も結構頑張っているよなあ
という良い気分で眠りに入れるようにしよう。

とりあえずも、ともかくも、今日を大切にして、明日のことなんて
もうわからなくてもいいやくらいの気持ちで。

日曜日, 6月 11, 2006

雨の週末

しばらく前までは週末をもっと行動的にすごせたのだが、
ここのところの、週末は何もやる元気がでず。といって
何もしないでごろごろしていると、余計にさえなくなって
くるので、悪循環の日々を送っている。

床屋いったり、実家の母に会いに行って、PCの使いかた
きかれて教えたり、まあそんなものか。

木曜日, 6月 08, 2006

ハワイ マウイ島 スキューバダイビング体験記

6年9ヶ月前に、マウイ島で12日間くらいだったかな、
ダイビングショップのクラブハウスに滞在して、
PADIのオープンウォーターとアドバンスドオープンウォーターの
資格をとった。

そんなに行きたくもないのに、妻が、どんどん予約を入れて
なんだかいくことになった。妻としてはハワイで、おれに
ブランド物のお土産をかってこさせるのが第一目的だったようだが、
僕はついでに、滞在期間をギリギリまで延ばした。

当時、妊娠中で3歳の子供を抱えた妻を置いて一人で
そういう旅行をすることから、また私への風あたりは
一段と強くなった。

さてクラブハウスは一軒やで、ダイビングインストラクターの
20代の女性二人(二人とも美人だった)とサーファー一人(マウイ島は
サーファーの聖地なのだ。) カメラマンを目指しながら何故か
ダイビングの手伝いもやっている、若者と、

男3人、女2人の共同生活が始まった。

各部屋に鍵はついてなくて、女性陣は心配でないのかなあと
思ったけど、全然気にしてないようだった。

その女性インストラクターの片方に私はほとんどマンツーマンで
スキューバーダイビングを教えてもらった。

教え方もうまく、てきぱきしていて、いったい今まで何をして
いた人なのか、とても興味を引く人だった。

一回、久しぶりに潜るという日本人の高校生の男の子も
一緒に、ボートダイビングをしたら、その子は、水深30メートルくらいの
ところで、息がすえなくなったのか、パニックに陥り、急浮上しだした。
かなりまずいなあと、僕がみていると、その彼女が、すぐに自分のレギュレーター
を貸して(間接キッスがうらやましいなあなんて思っていた)その子を落ち着かせ
彼女は少しもあわてず、冷静に対処しているのをみて、感心した。

こんなにパニック時に強い女性をはじめてみた。

教え方も隙がない。

それでも少しずつ僕とも気楽に話をしてくれるようになった。

彼女はみんなが知っているような会社の社長秘書(かなり話したくない
話題だったらしいが、僕が聞き出してしまった)から転職してきた
ということだった。

あれだけ一生懸命にスキューバーダイビング教えてもらったのに
かなりの部分をもう忘れてしまった。魚の名前も教えてくれたのに
忘れてしまった。

ずいぶんとしかられながら教えてもらったような記憶があるが、
講習最終日だけは

「水にとても慣れている。とても優秀な生徒さんでした」

といってくれたので

「泳ぐだけなら、僕のほうが得意だろうから、いざというトラブルが
おきたら、これでも助けようと思っていたんだよ」

といったら、初めて、普通の女性のような、嬉しそうな
柔らかい笑顔を見せてくれた。

実はそれとは別にそのダイビングショップと関係の深い
アメリカ人の投資関係の仕事をしている人とその後
日本で仕事からみで再開したりと、色々な出会いのある
旅であった。

帰りはオアフ島に一泊して、妻へのプレゼントを懸命に探した。
ロエベの本国以外では初公開とかいうえらく高いバッグを
思い切って買って帰ってきた。まるで言い訳を探すように
バッグを探したんだな。こういう店が大嫌いな僕は
店の中にいるだけで、汗が噴出してきてしまって、まいった。

マウイ島は、何故かは知らないが、空も海も、とても青い、
他の僕の知っているどの場所よりも青くみえる。
風の強い、場所だった。

そう、どこだって、僕への風当たりは強いのだ。

焼肉やにて

昨晩は、ブログを書いたあと、自分が以前、社長として4年3ヶ月間勤めて
いた会社の入っていたビルの近くまでいってみた。

このあたりの感傷的なことに浸りたくなるくせは、僕からぬけない。

本当に色々なことがあって、密度の濃い時間をここですごしたなあと
胸に募るものがあるのだ。

それからふらふらと隣駅まで歩いていくと、ビルの2階に入っている
焼肉やを見かけた。その焼肉やの窓から、僕の知っているらしい
おばさんが皿を片付けているのがみえた。

昔、水商売の店を経営していたママが店を閉じて焼肉やをはじめたから
来てねと連絡もらっていたのに、(あれは一年くらい前か)一度もいってなかった。

もうおなかはいっぱいだけど、懐かしくて、その店に駆け上っていった。

ビールを飲みながらママと話をした。

彼女はとっても素敵な店を経営していたけど、あまりにも
綺麗な子が多すぎて、人気が出すぎて、周囲の店から
やっかみと、警察の介入(これも変な話、彼女の店だけ
ビザの問題で狙い撃ちされ)で店はつぶされた。
周囲の店は何故か同じことをしながら警察のお咎めなし。

2月から一日も休まずこの焼肉やの仕事をしてもう疲れたと
いっていた。

彼女は40台後半くらいだろうか、昔のような(5年前)の元気がない。

それでもね、彼女は偉い。自分で、世の中の人に喜ばれることを
して、お金を稼いで、自分の力で生きていくことを当たり前の
こととしてやっているから。

僕にできることは、知り合いつれて焼肉食べにつれていくことくらいだな。
きっと最高においしい肉をそんなに高くない値段で出してくれる
店のはずだ。あのママが経営しているのだから。

水曜日, 6月 07, 2006

6月7日ダイジェスト

朝から 「アル晴れた昼下がり市場へ向かう道.....]
と口ずさんでしまった。ドナドナだ。
今朝も朝から病院でどんな結果やらと家をでる。

しょうがねえから景気づけに大声で

「いってきまーす、おまえらも勉強頑張るんだぞ」

と玄関で叫ぶと娘達がそれより大きな声で

「パアパアーいってらっしゃーーーい。お仕事頑張ってねえええ。」

と言っている。

さらに、玄関をでると窓から、クビをまるで小動物が巣や穴から出すように
出しながら

「ぱあぱああ 言ってラッシャーい。 早く帰ってこれたら、早く帰ってきてねえ」

と叫んでいる。

それから会社でなくて病院にいって、以外に早く順番がまわってきて

医者 「いつ入院しますか?」

自分 「あの前の病院で検査入院してとたデーターは役に立たないんでしょうか?」

医者 「痛いところ疲れちゃったなあ ハハハ」

てな会話で結局空き次第入院となった。もうともかくできることはどんどんやって
いい加減けりをつけたいぜ。

それから会社いって、ちょこまか、CRMソフトにデーターいれたりして
今までの仕事の進み具合を相棒と議論したりした。

さてそれから、今度は、他の仕事で人にあい、ちょっとお願い事して。

それから別の会社の社長さんと酒飲みながら話したら
励まされながらも
「なんで自分が社長として、頑張らないんだと」
何回も真剣に説教されてしまった。

そうそれはそれでもっともだけど、まず健康問題に決着つけないと、
どうにもならん。

それに社長業の恐ろしさを知りすぎて臆病になっているような
俺がもう一度覚悟を決めるのも、自分なりに計画を立てないと
無謀すぎると長いこと思っている。

そして結局今は、とある会社から、これを書いている。
もう娘は寝るころだ。

ああもう色々あって、もっと酒飲んでからじゃないと
家に帰れないような感じだ。

また夏がくるんだな。

入院といえば前回の入院時は、患者と看護師でワールドベースボールみて
特に日本が劇的な優勝もしてもりあがったけど、

今度はサッカーワールドカップでもりあがるのだろうか。

ああ入院も楽しかったりして、もうオキラク ゴクラクな考えでいいや。

死ぬならそれも運命だ。

バイバイ、元気でねえ。 酒の入っているときはこんなもんさ

日曜日, 6月 04, 2006

バイクと自動車との対話

どんなバイクや自動車を気に入って楽しめるかというのは、
試してみないとわからない、不思議な世界だ。

今まで何台かのバイクに乗ってきたけど、
パワーがあるだけで、そのバイクを好きになれたことはなかった。

逆に、昔のっていた、250ccのオフロードバイクで、北海道の
長いだらだらしたのぼり坂をアクセル全開なのに70km/hくらいで
向い風を受けながら、少し速くなったり、少し遅くなったりしながら
走るのは、バイクと対話できているようで、とても楽しく、
そのバイクをもっと好きになった。

新しいレガシーも色々なグレードがあるけれど、
アウトバックの2.5iが一番売れていて、ユーザーの満足度も
高いらしい。レギュラーガソリンで燃費も良いのも理由だろうけど、
余計な機能がついてなくて、シンプルなことや、結局のところ
177馬力というのは、丁度よいくらいの(それでも通常使いけれないけど)
パワーなのだと思う。

それと明らかにここ数年のレガシーより、剛性が上がっていて
それにより、自動車の挙動がわかりやすくなっていること、
そんなことがこの自動車に好感を持たせてくれる要素に
なっているようなのだ。

このバイクや自動車なら、どこか遠くへいってみたいと
思わせてくれる、そんな機械をもっていると、それだけで
夢が広がるのだ。

自分から切り出してみた

先週は実は3回も病院に行った。

お医者さんから聞いた話もいろいろと、考えさせられるものだったが、
今の仕事で、折角気の良い、オーストラリア人達と働いていて
仕事に十分は集中できず、申し訳ないので、自分はこれこれ
こういう事情で、しばらく手術で入院するかもしれないから、
はじめたばかりで悪いが、この会社を辞めたほうが
よいだろうかと話をした。

そしたら、今お前がいなくなったら、俺達だけで何ができると
即座に言い返された。俺よりもっといい奴雇えばいいじゃないか
とはいってみたが、自分が意外に頼りにされていることに、
少しホロッときた。

そう、確かに今の仕事も またまた誰でもできるような仕事でも
ないことはたしかだ。もっとも自分が大した者でもないのも
たしかでそれが自分をまた落ち込ませるけど、
僕は決してあきらめない。そしてドンドン消耗していくけど、
その中で今まで見えなかったことが見えてくることもある。

でもなあ、医者から、癌の可能性も(少ないけど)あるとかいわれて
その直後に無理やり笑顔で営業活動してたりすると、これはこれで
まいりますなあ。なかなか。なんか、無理しすぎかもしれない。

そんなわけで、平日はともかく気力で仕事をやって、
それで金曜日にはある契約もまとまって、
仕事の相棒とビールで祝杯をあげたけど、
金曜に自宅に戻ってからはもう、ぐったり、
今日も2時までごろごろしてしまった。

実際疲れているのと、現実逃避をしたいような
気持ちのままに週末を寝てばかりいると、さらに気分が落ち込むので
2時から家族と買い物にでかけ、スバルのディーラーにいって
最近マイナーチェンジされたばかりのレガシー アウトバックに乗ると
これが、今まで歴代試乗したレガシーの中で、最も自然で、車体の
剛性も高そうなしっかりした乗り心地でとても楽しかった。

買い物では、メキシココロナビールを箱で24本買い込んで
もう5本飲んだ。このビールもうまいし、アルコール度数も
日本のよりちょっと低いせいか、適度な酔い心地で気に入った。

不安定な心と体だけど、自分の魂を信じられる、感じられる
ようにやっていきたい。それには、自分の考えと行動をなるべく
近づけることが大切なんだと思う。